METISからの提言―日本の医療機器・技術によるヘルスケア戦略―
アジアとの連携 旭化成株式会社 取締役 兼 専務執行役員 吉田安幸 氏
タイの洪水被害が教えてくれたこと

昨2011年,タイの大規模な洪水被害により,日本の主要産業である自動車,家電,機械などの産業において,日本企業の世界的な製品供給問題が発生した。日本では連日テレビのトップニュースで取り上げられたので,人々の記憶に鮮明に残っていることと思う。一連の報道により,タイの工業団地に集積した日系企業関連の組立工場や部品工場が,世界市場に対するサプライチェーンの根幹をなしていることを初めて知った日本人も多いことであろう。昨年 3月に発生した東日本大震災の影響で寸断された各企業のサプライチェーンが夏から秋にかけて復旧していく過程で,ダブルパンチのようにタイの洪水の影響が表れたのである。日本国内の大震災により日本企業のサプライチェーンが著しく傷つくことは,多くの日本人にとって直感的に理解できても,遠く離れたタイの洪水被害によってこれほどまでに多くの名だたる日本企業のサプライチェーンがダメージを受けたという現実は,一般的な日本人の想像の範囲を超えていたと思う。

中国が“世界の工場”と呼ばれるようになったのは21世紀に入ってからだが,日本の多くの産業にとって,今世紀はアジアとの連携の世紀と言っても過言ではない。アジア諸国の経済成長に伴い,当初は製品や部品の輸出先であったアジアは,やがて安価で優れた労働力と関連産業の集積を高めることにより生産拠点として見事に立ち上がった。さらに,リーマンショックを乗り越えて域内で雇用が増え賃金も上がることにより,消費地としても大きな脚光を浴びるようになった。全世界の人口の約2/3がアジアに集中している上に,経済成長率が低い日米欧に比較して著しい経済成長が予測されているアジアは,“21世紀はアジアの世紀”と呼ばれるほどに脚光を浴びている。地理的に有利な日本の産業界は,このメリットを最大限に活かすべくアジア諸国に進出して,現地で大いに企業努力を重ね,現地の産業振興にも貢献している。その企業努力の成果の一面が,今回のタイの洪水被害でつまびらかになったのである。アジアと一言で言っても,アジアは実に広いので,その国々により細かな事情は異なるが,このような日本企業との連携状況はタイや中国に限らず,アジア全域に広がっている。

医療機器に関する特殊性

しかし,日本の医療機器産業に関して,アジアとの連携の取り組みを見てみると,自動車や家電産業などと比べて,現状はかなり遅れていると言わざるを得ない。医療機器の取り扱いには固有の医療技術の知識が不可欠であるため,専門教育を受けた医療従事者のみが使用するという特性上,自動車や家電とは普及の構図が異なるということが,その原因の1つに挙げられる。

例えば,アジア各国の医師を目指す学生の多くが欧米の大学に留学し,そこで欧米の医療機器を用いた欧米流の医療技術を習得している。特に今日の先進医療の中心である米国の大学は,多くのアジアからの留学生を受け入れてきたので,彼らが帰国する際には,当然のように米国で慣れ親しんできた米国製の医療機器を母国でも使って診療に当たることになる。彼らは帰国後,欧米で学んできた最新の医療技術をその国の中で指導するリーダーとなるので,その影響は大きい。一方で,欧米の医療機器メーカーは,早くからアジアの医療の成長性に目を付けて,アジア各国に帰国した留学生をサポートして,その国の中核となる医科大学などの教育現場に医療機器を導入して指導も継続している。また欧米の政府機関,特に米国の政府機関は自国の医療機器産業のアジア展開を振興すべく,国を挙げて取り組んでいる状況である。

私自身,医療機器メーカーの事業を通して,アジアとの連携を図るべく努力してきたが,2007〜2009年にかけて実施された第3期のMETISにおいて,当時の世界情勢を踏まえて,各委員からもアジアとの連携を図るべきだという意見が多く出た。その委員の方々の総意として,2010年から始まった第4期のMETISにおいては, 4つの戦略会議の中の1つとして「アジアとの連携・交流」が取り上げられた。METIS委員である下條文武委員に戦略会議(アジアとの連携・交流)の主査を引き受けていただき,下條委員のリーダーシップのもとで,学側と産側から結集したメンバーが現在精力的に活動を進めている。その中で重要なことは,産学官が一体となって活動を進めることである。第4期のMETISで議論をしていると,各委員がそれぞれの立場で欧米のアジア展開の状況を肌身で感じ,同時に大きな危機感を抱いていることを,ひしひしと感じることができる。例えば昨年9月の会議でも,「欧米の医学会は,いかにアジアの学会を自らの学会活動の中に取り込むかを必死になって考え,実践している。日本の医学会は,残念な がらアジアに十分に対応できていない」「ベ トナムの旧宗主国であるフランスは,ベトナムの医療事業に対して国を挙げて取り組んでいる」「欧米の大手医療機器メーカーはアジアにトレーニングセンターを開設して,自社製品の教育を進めているが,日本の企業がアジアにトレーニングセンターを開設している例はまれである」などの具体的な事例が各委員から紹介された。

アジア医療圏構想

アジアでは,人々のボーダーレスな行動がますます盛んになっているが,医療においても,モノ(医療機器),技術(治療法),ヒト(医療従事者,患者),さらには医療機関も国境を越えていっそう移動するようになる状況が想定される。こうしたことから,医療圏を日本(1億人)だけでなく,広くアジア(42億人)ととらえる,“アジア医療圏”を構想して推進することが重要であるということが,昨年5月にMETISおよび医機連の連名による政策提言(医療技術のアジアとの連携・交流拡大に向けた政策提言)において提案された。日本の優れた医療技術と医療機器をアジア各国に紹介することを契機に,アジアとの連携と交流を進めて,将来的にアジアの医療の向上に貢献できれば,"アジア医療圏"の構築も夢ではない。

図1 アジアの医療ニーズの急速な拡大と“アジア医療圏”構想 (出典:第4期METIS 第5回 医療テクノロジー推進会議資料)。
図1 アジアの医療ニーズの急速な拡大と“アジア医療圏”構想
出典:第4期METIS 第5回 医療テクノロジー推進会議資料)

図1に示すように,アジア諸国では経済成長と所得水準の向上に伴い,医療インフラと医療保険制度の整備が進み,医療アクセスの向上も図られつつある。一方で,人口増加と高齢化の進展にも直面し,食生活の西欧化に伴う糖尿病などの生活習慣病の増大も大きな問題になっている。これらは,同じアジアの中で日本がすでに経験してきたことであり,その対応経験に基づく知見と技術はアジア医療圏の中で大きく活きるはずである。

例えば,アジア諸国では今後,日本以上のスピードで高齢化が進展することが予想されており,介護システムを含めた,高齢化社会における医療ニーズへの対応も必要となってきている。2010年に経済産業省が発表した『通商白書2010』も,アジア諸国では日本以上のスピードで高齢化が進展するとしている。高齢化社会(高齢者が7%に達した社会)から,高齢社会(同比率が14%に達した社会)になるまでの期間を見ると,先行している日本は24年だが,シンガポールは17年,韓国は18年,タイは22年と,早いペースでアジアの高齢化が進むとしており,医療費のさらなる増大も予想されている。

政策提言にも記載されているように,医療機器は医療行為と一体不可分であり,医療現場のニーズを踏まえて,改善・改良を加えながら,現地に適した機器を導入していくことが重要である。このため,アジアとの国際交流に問題意識を持つ各医学会のアジア諸国との交流の促進等を通じ,現地の医療現場との接点を拡充し,治療法と医療機器の開発・改良・改善のための"場"を確保して,ニーズに合致した機器の開発・普及を強化することが必要である。

さらに,製品開発の出口となる現場のニーズを,仕様の改良・改善を含めた技術開発の戦略にフィードバックするサイクルを確立し,日本の強みを生かして国際競争力を強化していくビジネスモデルを形成することが求められている。

今後の多様な現場ニーズに対応するためには,アジア諸国の現地の医療インフラ向上に資するように,医療技術(ソフト)と機器(ハード)とを組み合わせたシステム化・パッケージ化による総合的医療システムを展開するなど,運用の面からもMade in Japanの優れた品質と高い信頼性をアピールする取り組みにより,アジアの現地に根ざした形で,治療法に関するアジア・スタンダードを目指すことが重要である。

まとめ

前述したように,医療技術と医療機器のアジア展開という点で,残念ながら現時点で日本は欧米諸国に比べて遅れていると言わざるを得ない。しかし,人種的,地理的および歴史的なアジアとのつながりという観点から,日本には欧米諸国にない好条件がそろっている。これまで個々の医療機器メーカーや大学および諸機関が,それぞれの立場でアジア展開を進めてきたが,これからは日本の強みと弱みを見極めた上で,アジアの医療向上に貢献すべく産学官が一体となって,持続的にかつスピード感を持って,アジア医療圏の構築に向けた取り組みを進めることが求められている。

 

◎略歴
1971年,東北大学法学部卒業。同年,旭化成工業(株)入社(現・旭化成(株))。経営計画管理部経営企画室長を経て,生活製品カンパニー ホームプロダクツ事業部長,サランラップ販売(株)取締役副社長に就任。以降,旭化成メディカル(株)や旭化成ファーマ(株)の取締役等の役員を歴任し,2011年4月に旭化成(株)専務執行役員 兼 医療新事業プロジェクト長 兼 旭化成クラレメディカル(株)顧問就任,同年6月より現職。そのほか,日本医療器材工業会会長,医療機器・材料業界情報化協議会理事などを兼務。

(インナービジョン2012年3月号より転載)
METISからの提言 トップへ インナビネット トップへ